ふるさと考古歴史館

西郷たちの若き頃の街並みを体感

出土品などから鹿児島を学ぶことができる資料館。幕末・維新に関しては、明治日本の産業革命遺産に関する展示のほか、西郷たちが10代の頃の鹿児島城下の街並みを知ることができるコーナーも常設しています。

赤倉跡

鹿児島医学を成長させた英国人

英国人医師ウィリアム・ウィリスの病院があった場所。ウィリスは薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件で負傷者治療にあたり、戊辰戦争の時には西洋人として開国後はじめて京都に入って負傷者治療につとめます。後に西郷隆盛らの要請にこたえるかたちで鹿児島に赴き、鹿児島医学校と鹿児島医学校病院(赤倉病院)を設立。鹿児島の医学発展に貢献しました。

南洲寺(月照墓)

西郷とともに入水した勤王僧ねむる

西郷と共に鹿児島湾に入水した清水寺の僧・月照の墓があります。寺号は1907年に亡き西郷隆盛を勧請開基としてつけられました。

松原神社(南林寺跡)

戦国島津を祀る地は斉彬・西郷・大久保ゆかりの地

15代島津貴久の菩提寺・南林寺。西郷家歴代の墓はかつてこの寺の墓地に並んでいました。斉彬の遺髪を収めた鬢塚が南林寺に建てられており、奄美から戻ってきた西郷はこの寺の斉彬の墓をまず訪れたといいます。廃仏毀釈を経て現在は松原神社が鎮座しており、大久保利通が寄進した石灯篭も境内にあります。

調所広郷銅像

薩摩の財政改革者

天文学的な赤字を財政改革によって立て直した家老・調所笑左衛門広郷。交易や特産品販売強化を通じて経済力の底上げをはかりつつも、五石橋の建設や台場建造、河川改修なども積極的におこないました。彼が埋め立て工事に関与した天保山にある松林に、銅像が建てられています。

福昌寺跡

島津家歴代、ここに眠る

島津家800年の歴史のうち、6代氏久から28代斉彬までの歴代の墓が並ぶ墓域。かつては西国有数の寺院とされ、1,000人以上の僧侶がつとめていたといいます。廃仏毀釈によって寺はなくなり、墓域だけがひっそりと往時をしのんでいます。

三公銅像

幕末・維新の薩摩藩

日本初の近代工業地帯を築いた「幕末の名君」こと島津斉彬。国父として激動の幕末政局において薩摩藩の舵を取った島津久光。そして斉彬の遺志を継ぎ、明治維新を成し遂げた最後の藩主・島津忠義。斉彬を祀る照國神社の隣接地に戊辰戦争50年にあわせて幕末の三公の銅像が建てられました。それぞれのテーマのある台座、景観が整備されており、3人の銅像を周遊することで、それぞれの業績に思いを馳せることができます。

天璋院(篤姫)銅像

幕末のファーストレディ

鹿児島城下の今和泉島津家に生まれた一子。島津斉彬の養女となり13代将軍徳川家定の御台所となります。彼女の入輿の際の嫁入り道具は西郷が選んだそうです。家定の死後、「天璋院」として幕末の大奥を牽引。幕府と薩摩藩との対立が深まる中で、徳川将軍家の存続のため奔走しました。江戸に嫁ぐ前に一時生活していた鹿児島城内に銅像が建てられています。

小松帯刀銅像

維新のプリンス

幕末薩摩藩を率いた名家老。国父・島津久光のもと、禁門の変や薩長同盟、大政奉還など京都政局の中核をつとめました。決して良好とは言えない久光と西郷との橋渡し役をつとめ、政治・経済・外交の多分野で責任者として活躍した小松帯刀(清廉)。彼の屋敷地に近い宝山ホールの一角に銅像は建てられています。

東郷平八郎銅像

西郷の薫陶を受けた連合艦隊司令長官

鹿児島市街地や桜島、錦江湾を見渡せる高台に位置する多賀山公園。眺望の良いところに建てられているのが、日露戦争の終盤・日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎の銅像です。東郷は西郷にとって加治屋町の後輩にあたり、東郷が英国留学を希望した時、西郷の後押しがあって留学生に選ばれたといいます。東郷の兄は西南戦争で私学校軍に属して戦死しており、留学中に戦争の報を受けた東郷は悲嘆にくれたそうです。