西郷隆盛の信条、最も大切にしたのはなにか、それは「藩士を思う心」といえるのではないか。
明治元年正月十日付川口雪篷宛西郷隆盛書翰がある。正月三日から始まった鳥羽・伏見の戦いは、薩摩藩には藩存亡の一大戦争であった。いわゆる戊辰戦争の勃発である。そして、四日から六日に掛けての八幡の戦いは壮絶を極めた。西郷は弟達や従兄弟・大山巌にこの戊辰戦争は生命を賭けて戦うよう指示、もし人語に劣る振舞いがあれば勘当することを告げていたようである。この戦闘中に三弟従道や大山巌は銃弾による大変な重傷を負い、書翰には「慎吾(従道)ニハ余程適地え進入、耳之下より首え懸け、射ぬかれ」とし、「弥助(大山巌)ニハ耳を射切れ候得共、是は少々の傷ニて引取ず」と、重度の負傷にもかかわらず、「誠によろこばしく、もうは勘当は致さず」と書いているのである。薩摩藩士が戦闘で死傷することが、指揮官としていたたまれない心持であり、自分の身内が負傷したかどうかの心配以上に思いを藩士の死傷者に馳せたのであろう。西郷の藩士を思う心根を示すに象徴的な事例といえる。西郷の心底には藩士、藩士の親や身内、そして藩にとって藩士一人ひとりは掛け替えのない存在であると思っているといえるのではないだろうか。このような西郷の気持ちを示した書翰をもう一つ紹介したい。
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明治五年八月一日付吉井友実に宛てた西郷隆盛書翰である。西郷の苦悩が書翰文言から滲みでている。具体的には、近衛兵に採用された薩摩藩士で除隊した者達がいるというのである。なぜ除隊したのか。その理由を究明し、どのような対応が必要であるのか強い危機感を持っている。除隊した者を復籍されるとか、配置転換をするとかの対応はできないのか。除隊という「大いに不都合」な状況を解決したいとの思いが強く感じられる。近衛兵は軍隊組織であり、上位下達の命令の徹底は必要であり、軍隊であるから職階が設けられている。しかしながら、この職階が多すぎるではないかの疑問があったと推察する。職階・階級区分が詳細であることは、幕藩体制下の藩の支配階層が多かったことが反映していたのではないかと思いもあった。
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藩では城下士でも上士・下士の身分制が明確であり、さらに細分されていた。この弊害が近衛兵の階級編成にも生じているのではないかと、危惧していたのではないか。この問題は新政府の政治体制にも共通する問題であり、乗り越えなければならない問題でもあった。天皇側近の侍従には京都の貴族の子女・子息が就き、宮内省役人は貴族出身でなければ就任できなかった。外国から開国の圧力の緊急事態の世上で、天皇体制が改革されないといけない。旧体制打破して、天皇中心の政治体制の実現こそが喫緊の体制考え、苦心していた。宮内省・宮中の弊害の根源は、天皇の側近が堂上華族に限定していることを指摘し、剛健・清廉の士をもって輔導することが国威発揚には肝要であると考えていた。
吉井宛書翰は天皇側近の侍従及び宮内省改革が成功しつつあることを示している。というのは、貴族出身でない薩摩藩士吉井友実が宮内省の役職大丞に就いていることの意義は大きく、新体制の基盤確立と考えられる。宮内省改革では、吉井友実についで村田新八を大丞に、翌年には山岡鉄舟が侍従番長後に宮内大丞・少輔を歴任、侍従及び宮内省人事をなし、侍従に藩士高島鞆之助など西郷の意を受けた剣の達人で見識の高い人物が任用された。
この近衛兵辞退の案件は藩士を思う西郷の心に強く残こり、郷士が多数務めていた警察制度に近衛兵での弊害が起きないように階級制度は簡潔にし、近衛問題が警察に飛び火しないように提案している。