弘化元年(1844)、西郷隆盛は郡方書役助となり、薩摩藩役人としてのキャリアをスタートさせました。書役とは、旧名を筆者とも言い、その名の通り薩摩藩の書記官にあたる役職です。行政文書の作成・管理を担う下級役人として藩庁各部局に設置されており、多数の武士たちが勤務していました。
西郷が任命されたのは、「郡方」=農政担当部局に属する書役の「助」。これは現代における「助役」といった意味ではなく、薩摩藩においては定員外の、いわば臨時職的な立場での任用を指します。あえて現代的に表現すれば、郡方書役助は鹿児島県庁農政課の臨時的任用職員と言ったところでしょうか。江戸時代後半の薩摩藩では、藩の行政事務が増大するのに伴い、このような「助」での書役任命が各部局で広く見られました。 書役・書役助いずれにしても、行政の現場で実務に携わる役職です。よく知られるように、若き西郷は上司である郡奉行の迫田太次右衛門とともに領内各地を巡回し、道・橋の普請や年貢徴収の実務に従事し、行政の経験を積んでいきました。また、厳しい農村の実情に触れ、政治観にも大きな影響を受けたといいます。そうした意味でも、郡方書役助は偉人・西郷隆盛のまさに原点となった役職と言えるでしょう。
ところでこの書役助は、西郷含む下級の薩摩藩士、特に藩庁へ就役できる鹿児島城下士にとっては大変重要なものでした。収入の途に乏しく家計の苦しい下級城下士にとって、書役助となって得られる役料は貴重な収入源だったのです。

このため幕末になると、藩も困窮城下士対策と書役助を結び付けた政策を打ち出します。嘉永2年(1849)6月、藩は収公した領地3,000石分を財源に、新たな困窮城下士救済制度を開始しました。それは、藩庁各部局に困窮城下士のための採用枠を200名分新たに設け、困窮城下士らを主に書役助として半年交代で勤務させ、上記3,000石から役料を支給するというものです。
制度の趣旨としては、困窮城下士に食い扶持を与えつつ、彼らに行政事務の経験を積ませ、人材育成をも図ることにありました。このため、勤務ぶりが優秀と評価された者には正規採用への途も開かれていました。
しかしながら、本制度は藩の期待通りにはいかなかったようです。万延元年(1860)ごろに出された藩の達によると、本制度での勤務は半年交代のはずなのに、勤続を申し出る者が多いせいで交代が進んでいないことが問題視されています。けれど困窮する城下士たちからすれば、一度つかんだ食い扶持を手放したくないというのも人情でしょう。
さらに、国内の政治状況が緊迫してくると、本制度は軍事動員につなげられます。それまで書役助を中心としていた任用枠が、砲術館詰や砲台・番所詰といった軍事色の強い役職へと変更されていったのです。そして慶応3年(1867)には、採用された困窮城下士はすべて藩の陸軍の支配下に編入されることになりました。こうして困窮城下士たちは戦兵として動員され、戊辰戦争を戦うこととなったのです。
明治維新後、彼らは凱旋兵士として鹿児島に帰国しますが、厳しい経済状況は依然として変わりませんでした。明治4年(1871)7月の廃藩置県で鹿児島県が設置されると、県庁はただちに新制度を打ち出します。同年9月には禄高25石以下の鹿児島士族に「救助米」30俵(6石相当)を支給することとし、これまでの書役助勤めによる救済制度を発展・統合しました。なお、この施策は西郷隆盛の建言に基づいて行われたものです。ほかならぬ西郷自身、かつて書役助として食い扶持を得ていた下級城下士の出身。困窮城下士たちの救済は、西郷にとっては文字通りわが身の事として心を砕いていたのでしょう。
しかし、県による救済策はその後も様々な政治的事情に阻まれ奏功せず、困窮城下士たちの経済問題はくすぶり続けました。彼らの不満はやがて西郷を拠り所として、西南戦争への道を突き進むこととなったのです。